「にわか」とか、「中途半端」ということばについて
「本当」「本物」ということばには気をつけないといけない。「本当」「本物」ということばは使いやすいので、わたしもよく使ってしまう。プロ野球のはなしをしているとき、「本当のロッテファン」とか、言ってしまう。「本当」「本物」はただひとつの理想的な答えがあるようなものの見方だ。このことばを使うと、そうでないもの、「うそ」のなにかをつくってしまう。イデアのはなし。「真実」が重要になり、グレーの、あいまいな部分がこぼれおちてしまう。
そうなると、「中途半端」も、「本物」がある世界からみたことばのように思う。ある理想的なすがた、ひとつの完成形や正解があり、それに至っていない、それにとどいていないから「未熟」、「中途半端」だと捉える見方だと思う。また、わたしは、自分のことを、あらゆることに対して「にわかでライトファン」だと思ってきたけれど、それも、「本当」「本物」がある世界からみたものの見方だ。あらゆることが移り変わって行くのが当然で、変化やプロセスの途中でしかないと考えたら、浅いも深いもないし、「中途半端」でも「にわか」でも何でもない。
ただ、「にわか」ということばが「浅さ」「未熟さ」のニュアンスを含むのは、スラングとして使われるときで、もともとは「急な」「突然の」「一時的な」などの意味合いで古くから使われてきたようだ。図書館で古語辞典や語源辞典をいくつか参照して調べたところ、『万葉集』には、〈尓波志久(ニワシク)〉という、〔あわただしく、突然〕という意味を含んだ言葉が使われているとのこと(※参考:杉本つとむ 著『語源海』東京書籍 2005年。「にわかあめ」についての文章を参照した)。その後、『源氏物語』や『枕草子』、『平家物語』でも使われている。想像していたより古いことばだった。辞書を横断して見ていくうちに、スラング的な使い方はそんなに進んでしなくてもいいかな、という気分になった。(ネットの世界に浸かりすぎていると少し反省した…。)
あらゆることが変化やプロセスの途中であることや、あいまいな部分を大切にするためには、「本当」「本物」がある世界側にできるだけ立たないように、慎重になる必要がある。できるだけ、といったのは、「本当」「本物」がある世界からものをみるのは「駄目」だ、といってしまったら、今度は「本当」「本物」がある世界側ではない世界が「正解」になってしまうからだ。また、いまのわたしは、「本当」「本物」がある世界側の面白さ(勝敗や吉凶が白黒はっきりすることのエンタメ性など)もよくわかるし、それが楽しいこともあるし、ゆらぎがある。両方ある。だから、排他的に扱わない、対立させない、並べる。その中で、あいまいな部分を大切にする世界に寄りかかりながら、それを大切していけると嬉しい。むずかしい。勉強しよう。まずは、ことばの使い方や選び方から、アップデートしていこう。気を使いながら、文章を書きたいな。
ということで、「にわか」や「中途半端」ということばについて、一度、文章にして残しておかなきゃと思っていて、でもずっと書けていなかったから書いた。今はここまでしか考えられなくて、書けなくて、拙い?中途半端?いやいや、自分の有限性をもって、今日はここまで形にしたということです。また考えて、なにか書けることができれば、その都度、形にして書けばいいし、違うなと思ったら止まったり、訂正すればいい。そうやって創作したいな。
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