あかりちゃんが卒業する日のこと
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今日、あかりちゃんは宝塚歌劇団を卒業する。わたしは友達と一緒にライブ配信をみる予定をしている。いまはそれほどナーバスな気持ちになってはいない。先週、東京宝塚劇場で、お別れをしてきたからかもしれないし、単に実感が湧いていないだけかもしれない。あの日、東京宝塚劇場で観劇した後、神保町画廊にいく予定をしていたが、気持ちがざわざわしていて落ち着かなかったので、日比谷公園のベンチに座って休むことにした。天気が良かったので、冬なのでそりゃ寒いのだけれど、寒いなりに気持ちのいい日だった。日差しが気持ちよかった。寒くて暖かかった。メッセンジャーバッグの中には、千葉さん、千葉雅也さんの小説『デッドライン』が入っていた。
……では、話を元に戻しましょう。
と、徳永先生は続きを語り始めた。(*1)
という、『デッドライン』の中にでてくる、徳永先生の授業のシーンから読み始めた。朝から読んでいたのだけれど、たまたま、続きがこのシーンだった。荘子と恵子のやりとりを例に、なぜ荘子は魚の楽しみがわかったのか、ということを学生と一緒に考えているシーンだ。文庫本でいうと72ページから始まる話だ。このシーンは、43ページで一度でてきており、一度途中で終わっている。ここで改めて、授業のシーンが戻ってきた。なぜ、荘子が、他者である魚の楽しみがわかったのかについて、徳永先生が自分の解釈を話し始めた。
自己/他者という二項対立から始めるのではなく、ただたんに「そばにいる」、「傍らにいる」ということ、このこと自体が荘子にとって重要なのです。
人間でも動物でもいいのです。他者と「近さ」の関係に入る。そのときに、わかる。いや逆に、他者のことがわかるというのは、「近さ」の関係の成立なのです。「近さ」において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのときに私は、私の外にある状態を主観のなかにインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです。(*2)
そうかあ、と思った。わたしにとってあかりちゃんはどういう存在だったのか、わたしはあかりちゃんと新たな自己になっていた、というか、ある熱量をもってファンになるということは、相手が自分のことを知らなくても、そこには新たな自己が立ち上がっているのではないか、と思いはじめた。あかりちゃんとのお別れは、あかりちゃんとのあいだに存在していた、わたしの新たな自己とのお別れでもあるのではないか。だから、こんなに苦しいのではないか。では、それはどんな姿だったのか、東京にいるあいだずっと考えていたのだけれど、次の日、とつぜん鮮明に見えてきてしまった。あまり見たくないものだった。これは、ちゃんと書いておきたいけれど、今はうまくまとめられないので、また書けそうなタイミングがきたら書こうと思う。でもそれは相当、自分の情けないところが含まれているので、勇気がいることでもあるなぁと思う。
ある近さにおいて共有される事実を、私は「秘密」と呼びたいと思います。
真の秘密とは、個々人がうちに隠し持つものではありません。具体的に、ある近さにおいて共有される事実、それこそが真に秘密と呼ばれるべきものなのです。
これで、「魚の楽しみ」の話は終わりです。(*3)
わたしは、ベンチから立ち上がって、そのベンチを撮影した。そのまま日比谷公園の写真を撮りながら、ぐるっと散歩し、地下鉄に乗って、神保町に向かった。
*1、*2:千葉雅也『デッドライン』新潮文庫、2022年、72-73頁
*3:千葉雅也『デッドライン』新潮文庫、2022年、75頁

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