2025年9月 − 08

『デッドライン』のことを書いておこうと思う。千葉雅也さんの小説。

文庫本を持っていて、お守りのようによく持ち歩くので、表紙に皺や折れ曲がったあと、かすかな汚れもあり、全体的にくたびれて、経年劣化が進んでしまった。よく持ち歩くなら、もうとっくの昔に読み終わっていると思われるかもしれないけれど、本編最後の30ページを未読のまま、そばに置き、持ち歩いていた。読んでしまうのがもったいなくて、ずっとそのままにしていた。それを数日前に、今から最後まで読もう、となんとなく思った日があり、読んでしまったのだった。

読んでしまったけれど、それから、最後の30ページを何度か読み返した。Kindle版も買ったので、Kindle版でも読み返した。いろんな読み方を楽しみたかった。そのあと、巻末の町屋良平さんの書いた『デッドライン』評を読んだ。でも、何度も読み返していたのは、町屋さんの文章を読むためではなく、ただ読み返したかったから読んでいただけだった。

人でも物でも趣味でも恋愛でも、何かを好ましく思うときの感覚が、「好きになる」という感覚が、自分はなにかズレている気がずっとしていて、それがなんだったのか、この小説を読むとぼんやりわかるような気がしてくる。小説の世界に入って、わたしは言葉を借りて帰ってくる。人でも物でも「越えられない距離を挟んで相手を対象として愛する」とかできない、そういうのは退屈でつまらない。「好きになる」という感覚の中に、対象(仮にAとする)になってしまいたいという感覚が含まれている。Aと一体になる、ということではない。Aに変身する、ということでもない。Aに限りなく近づくことで、足元がゆらいで、変化して、別の自分に変わってしまうことを楽しみたい。だからわたしは、佐内さんの写真になりたい、と思ってしまう。あかりちゃんにもなりたかったし、『デッドライン』にもなりたかった。

というと、あまりにも『動きすぎてはいけない』にも影響うけすぎでは?といわれるかもしれないけれど(実際そうだし)、このかんじをもっと自分なりに表現できるようになることができれば良いなと思う。







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