2025年10月 − 05
ロームシアター京都でバストリオのリーディング公演『不可能の限りにおいて』を観た。
ポルトガル出身の劇作家・演出家であるティアゴ・ロドリゲスの作品。今年の春に静岡芸術劇場で来日公演があったが行けず、ずっと気になっていた。今回は、ロドリゲスのこの戯曲をバストリオがリーディングで上演した。
本作品は、ロドリゲス自身が、赤十字国際委員会と国境なき医師団のメンバーたち約30人と対話を重ねて創作した戯曲とのこと。劇中、場所や人種などの詳細は明かされず、エピソードが断片的に集まってできた戯曲だった。本来は15エピソードほどある(と説明があったような気がするがうる覚え)なかで、今回は上演時間の都合上、13エピソードが採用され上演された。
淡々と様々な方法(バストリオ版の演出では、手紙を読んだり、何人かで掛け合いがあったり、独白があったり、テロップと振り付けのみの沈黙の時間があったり、色々だった)でエピソードが俳優から観客に伝えられる。ただただ聞くことに集中しているうちに、すべてのエピソードが伝えられ、約100分の上演が終わって明かりがついたあと、気持ちが緩んだ途端に、ぶわっと何か、感情なのか何なのか、込み上げてきた。泣きそうになるからこれはやばいと思って息を止める。なんの感情かよくわからなかった。すぐにアフタートークイベントが始まりそうだった。わたしは、前列の舞台空間が近いところに座っていたので、こんなところでぼろぼろ泣くわけにもいかず、冷静になろうと努める。
人道支援の現場でどんなことが起きているか全然知らない。現場をイメージする視覚的なイメージが全く提示されない状況で、ただ俳優が発することばに耳を傾ける。ショックなこともたくさんあった。人間は複雑で、完全にクリーンな善人も、完全にブラックな悪人もいないこと。ずっと「可能」(支援する側・安全な場所)な場所も、ずっと「不可能」(支援される側・被災した場所)な場所もなく、相互反転すること。人間も世界もとても複雑なのに、そんな複雑なことを伝えることは難しいこと。人間は複雑な事柄よりも、単純で、純粋な物語を好むこと。
わからないことがたくさんある中で、わからないままにしておくほうが楽なときがある。これは無関心だ。一方で、簡単にわかったような気になったり、わかったふりをするのもまずい。これは思い上がりだ。なのに、まず前提として「わかること」があり、理解するように、わかることができるように努めるよう促される場面もたくさんある。どうしてもわからないことは存在するのに?
わからないことがある、ということを前提にしながら、それでも他者に思いを馳せるための想像力を働かせるということはできるのだろうか。少なくても、あの場ではそれができたような気がする。
トークイベント中、排外的な全体主義、純粋主義が広がることへの懸念についても触れられた。様々な人間が生きて、様々な価値観が存在する世界で、それが自分にとって好ましくないものであっても、認めつつ、思いやれることはできるのかなと考える。また、「不可能」な世界で、それが小さな絆創膏であっても、命を惜しんで出かけていく人たちに対してどのように思いを馳せればいいのだろうとも考える。どうしたらいいのか、わからない気持ちになる。でも、時々、この日体験した感覚を思い出してみようと思うし、きっと思い出すことになるとも思う。
家に帰ってSNSを見たら、なんと、批評家の佐々木敦さんも観にこられていたとのこと。上演があったノースホールは小さい劇場空間なのに全く気づかなくて、惜しいことした〜と思ったが、気づいたところで話しかける勇気はなかったような気がする。バストリオの公演はずっとチェックされているようで、お客さんとして、東京から観にこられていたようだった。バストリオは、雰囲気のいい劇団で、俳優の皆さんも魅力的で、わたしも他の作品も観てみたい。また京都に来てくれると嬉しいな。
![]() |

コメント