2026年1月 − 07

当たり前のことだけれど、自分が望むものを、何もかも手に入れることはできない。体験することもできない。長く生きれば生きるほど、もしも、が増えていく。様々なIfの自分の人生を想像しながら、有限な自分の人生について考える。進路や住まいのような大きなことから、晩御飯にパンを食べるかうどんを食べるか、そんな小さなレベルまで様々なこと。それらをどうやって選ぶのか。積極的に選ぶことあるけれど、主体的でも受動的でもない選択もある。なんとなくそうなったということの方が多い。今振り返ると、間違った選択もある。そうするしかなかったこともある。選ばなかった、目の前に表れなかった無数の可能性と、様々な幅をもつ偶然の現実の連なりがある。

生まれてくることだってそうだ。生まれていない、存在しない、という自分(それを自分と呼べるのかよくわからない)もあったはずで、そんなことをずっと考えていると、もしもの人生も今の人生も、すべてまぼろしみたいに思えてくる。

まぼろしでもいいかな、と最近は思う。これは諦めでも悲観でもなく、ちょうどいい言葉が見つからないのだが、もっと落ち着いた気持ちでそう思っている。

部屋の片づけをしていたら、1年前に東京にいったときに書いた日記のようなメモがでてきた。小さなメモ帳に、小さな文字で文章が書いてある。片付けを中断して読んだ。書いた記憶はあるが、なんだか遠い昔のように思えるし、これ、ほんまにわたしが書いた文章か?と疑わしくなる。内容にはいくつかトピックスがある。中でも、展覧会に在廊中の佐内さんと会ってお話しできたあと、興奮冷めやらぬなか、適当に喫茶店に入ってメモに殴り書きをしたときの文章が、特にやばかった。おそらく、起こった出来事をすべて記憶に留めておきたくて、忘れないように必死でメモしたんだと思う。

この文章は、確かにあの時のことが記録されているのだけれど、正直なところ、あの時の感動した気持ちや、あの時の情景を喚起させるようなものではなかった。文章の必死さから、インパクトの大きさを辛うじて読み取れるくらいのものだった。記憶をすべてレコードするなんて、そもそも無理だ。じゃあ、今の自分がその状況になったところで、もっと違う方法で大切なことを表現できたのかと言われれば、できるとは全く思えない。今の自分の表現力も、あの時の自分とさほど大きな差はない気がする。

書いてしまったら、その時の自分も文章も、他者になってしまうんだな、と思う。やっぱり、自分という存在はとても不確かだな、とも思う。








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