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2026年6月 − 06

欲しいと思っている本について調べていて、ネットサーフィンしてすぎて疲れて寝て起きて「やばいめっちゃ買い物してしまった!!」と思って履歴を見たらなんも購入していなかった。さらに2日間ほど時間をあけてその日検討していた本のうち1冊だけ購入した。

親から連絡があった。腫瘍を切除するための手術をするとのこと。簡単な手術だから安心してと書いてある。安心して欲しいからわたしも事務的な確認だけしていつもどおりのかんじで返事をした。

こうやって日常の出来事を選び書くことがどういう行為なのかよく考える。ただの日記、だけど。書くことで現実とどれだけ離れたのか、距離ができたのかとか。ここで書かれた「わたし」は何者なのか、とか。

書いてしまったらもうそれは現実とは別物になってしまうということについて、頭ではわかっているけど、実感としてよくわかっていない気がする。でも、先日の吉本ばななさんのnote(エッセイ)とか町屋良平さんの小説(私小説に近い物語)を読んでいると、読者の「わたし」と本の中の登場人物の一人称「わたし」が重なって多声になったときに、読者の「わたし」の立ち位置がずるっとズレてしまう感じがあって、フィクションってこういうことか?フィクションってもしかしてこちら側にあるのか?とふと思ったのだが、まだ「こういうこと」についてうまく説明できない。

購入したのは写真家金村修と写真評論家タカザワケンジの対談本『挑発する写真史』。対談のなかで金村さんは、写真家の中平卓馬が生前言っていたことばを引用し、屋根を撮ってもそれは屋根の再現にはならない、撮影したものを現実の文脈から剥ぎ取ってしまうのが写真だと説明している箇所がある。現実を起点にしていても、表現したら文脈の書き換わりが起きてしまうのだと思う。それが日記であっても同じで、現実の再現はできない。(ちなみにこの本めっちゃ面白いです。)
















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