2026年6月 − 09
目を労るためにモニターに大きく表示されるようになった文字は、ブログの入力画面ではやたらデカくみえて不恰好。この文字の大きさがとても気になるが、目が疲れるよりマシ。
まるネコ堂で『動きすぎてはいけない』のゼミに参加するようになってから2年経った。初回は2024年3月16日だったみたい。少しずつ進んでいてやっと第2章が終わった。
まるネコ堂で『動きすぎてはいけない』のゼミに参加するようになってから2年経った。初回は2024年3月16日だったみたい。少しずつ進んでいてやっと第2章が終わった。
哲学書を読み慣れていないから難しい。でも2年経って少し慣れてきたのか、書かれている文字が上滑りする感覚がなくなってきた。今日は第3章を読みはじめた。
この本を読む時、たぶんわたしは図的に理解しようとしている。平面図を思い浮かべて線で結んだり、言葉どうしの距離感を測ったりしている。そうやって哲学書は読むものだと思っていたら、ほかの2人は全く違う読み方をしていた。図ではなく想像力を働かせていた。読み方は人それぞれ違うとよく聞くが、ほんまにそうなんやなと思った。
よくよく考えると小説を読む時も、風景を思い浮かべたり人物像を思い浮かべたり想像力を働かせて読むことが苦手だ。「私」なら「私」、「徳永先生」なら「徳永先生」と文字のままで顔が浮かんでこない。文字はすべて文字のまま層になったりまとまりになるだけ。イメージに全くならないわけではないけど、イメージになりかけてはすぐ文字に戻る。ビジュアルイメージの強い小説でカメラの位置が明確に示されると、ぼやあと部屋の中やまちの様子が浮かんでくるときが時々あるくらい。それでもすぐ文字に戻る。著者の姿も浮かんでこないし、声も自分の声でしか再生されない。でも小説を楽しむことはできている。想像できなくても感情が動くし面白く読むことができる。作者とそのことばを自分に憑依させ音楽を聴くみたいに楽しんでいるのだろうか。みんなどうやって本を読んでいるんだろう。
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